2015年


ーーー12/1−−− 握手という作法


 
 「鶴瓶の家族に乾杯」という番組を、ときどき見ている。番組の中で、訪問先の人々は、鶴瓶 さんを見付けると、わっと集まって来る。そしてそれぞれ握手を求めて盛り上がる。

 ある晩、それを見ながら私が、「握手なんて、外来の作法で、まだまだ国内では定着していないのに、この番組では当たり前の現象だね」と言ったら、脇に居た家内が、「握手なんか何年もしてないわ」と言った。

 日本人同士が握手をするというのは、大都会のハイソサエティーの人々はどうか知らないが、鶴瓶 さんが訪ね歩くような地方、郡部では、まだまだ非日常的な行為である。私が住んでいる地域でも、ご近所同士が道で出会って「やあ、お早う」などと言いながら、握手をするというのは、見たことが無い。

 私が以前勤めていた会社は、海外の仕事が多く、外地の経験者も多かった。外国帰りの社員の中には、握手がすっかり板について、躊躇無く手を差し出す人がいた。お祝いの席など、特別の場合ならそれも良いが、日常的なシーンで握手を求められるのには、いささか抵抗を感じたものだった。

 私がジョイベンの仕事でニューデリーに駐在していた時、同じ事務所でフランス人や英国人と仕事をした。フランス人のマネージャーは、朝職場に入ると、スタッフの一人ひとりの席を回って握手をした。私も毎朝、彼と握手をした。それを見たインド人のアルバイトが、真似をして握手をして回ったら、日本人スタッフから怒られた。ともあれ握手と言うのは、欧米世界では、挨拶の一部なのである。握手をしながら、ウインクをしたりもする。時には、男性からキスをされそうになることもあった。彼らにとって、握手は初歩的なスキンシップなのである。

 そんな海外経験が有った私だが、日本国内で日本人から、単なる挨拶としての握手を求められると、やはりちょっと気恥ずかしかった。

 日本ではまだまだ、握手と言うのは、特別な場面の作法か、あるいは有名人と出会ったときの思い出作りの行為でしかないようである。




ーーー12/8−−− 12年半の記事の量


 昨日12月8日(火)まで、飯田市で展示会を行なっていた。昨晩遅く、展示品を積んだ軽トラで帰宅した。今朝は寝坊を決め込んだ。もっとも我が家は、普段でも早起きではないが。

 火曜日は、マルタケ雑記の更新日だが、昨日はそんなわけで叶わなかった。先週から出掛けていたので、記事も準備していない。一日遅れだが今日、記事を書いて、アップしなければならない。更新を楽しみにしている読者のために、大急ぎでやらなければならないという、切迫したシチュエーションである。ところが、展示会を終えた直後の疲労感、脱力感は、相当なものである。頭の回転はひどく遅く、うっかりすると止まってしまいそうである。

 マルタケ雑記は、毎週土曜日くらいに原稿を書き、後二日で推敲をして、火曜日の朝にアップするというのが、いつものパターンである。ところが、いざパソコンの前に座っても、何を書けば良いか思い付かない事がある。いや、そうなる事の方が多い。そこで普段から、書いてみたいテーマをメモするようにしている。専用のノートに、大まかな内容が分かる形で、テーマを書き留めておくのである。これを、マルタケ・ネタと言う。思い付いた時にその場ですぐメモることが重要である。しばらく時間が経つと忘れてしまい、思い出せなくなるからだ。だからそのノートは、いつも食卓の上に置いてある。

 そのノートには、これまで思いついたテーマの数々がリストアップされている。その中で採用されたものは横線で消してあるが、現在でも残っているものが多数ある。その中から気が向いたものを選んで原稿を起こせば良いのだが、今回はそれらを見ても、書く気が起きなかった。あまりにも興が乗らないので、今回ばかりは休載にしようかと考えたくらいである。しかし、2003年の5月に始めて以来、休んだことは一度も無い。その輝かしい歴史に傷を付けるのも嫌だ。それで、しぶしぶ筆を取った(キーを叩いた)次第。

 それにしても、12年半を単純に計算すれば、これまで650ヶ近くの記事をアップした事になる。よくもまあそれだけ書いたものだと、自分でも一寸驚いた。




ーーー12/15−−− ケチケチ旅行


 
12月上旬に、飯田市で展示会を行なった。会場はカフェギャラリー「アート・ハウス」。昨年3月に続いて二度目である。アート・ハウスについては、2014年3月25日の記事をご覧頂きたい。

 今回は、家内の布作品も展示販売したので、全期間を二人で行動した。二人でとなると、宿泊費がかさむ。そこで最初の計画では、毎日自宅へ戻ることを考えた。高速料金は片道2000円程度。ガソリン代は800円くらいか。両方合わせて往復では5600円となる。二人で宿泊してこの金額に納まる宿泊施設は無いだろう。泊まれば外食となる可能性が高いので、その費用もあなどれない。日帰りを重ねるほうが、明らかに経済性は良い。

 もし、自宅へ戻るのが億劫になったら、車に泊っても良いと考えた。タントでの車中泊は過去何度か経験済みである。温泉施設で入浴し、道の駅の駐車場に入れて、寝袋で寝れば良いのである。食事は自炊。登山スタイルである。

 この計画をある人に話したら「もう若くないんだから、無理をしない方が良い」と言われた。高速道を使っても、片道2時間はかかる。夜7時に会場を出たとして、自宅に着くのは9時過ぎ。それから食事をして、就寝して、翌朝は8時前には出なければならない。運転による疲労も考えると、確かに少々無理なような気がした。

 良く調べてみたら、格安のビジネスホテルが見つかった。一人一泊3500円(税込み)である。五泊のうち二泊はそこを予約した。そして初日と最終日前日は自宅に戻り、残りの一泊は自宅に戻るか車中泊にすることにした。展示品の運搬を行なう日のみ軽トラを使い、あとはタントで移動するという計画である。

 交通費を節約するアイデアも考えた。初日は早朝出発なので、全行程を一般道で行く。一般道だと3時間半程度である。飯田から穂高への帰りは、なるべく短時間で済ませたいので、目一杯高速道を使う。初日以外の往路は、松本市内の混雑を避けて、途中まで高速道を使う。伊那から先は広域農道を使うので、渋滞などは無いと予想した。

 ビジネスホテルは、旧式ではあったが、そこそこ居心地が良かった。こういう事にはうるさい家内も、良く眠れたし問題無いと言った。部屋にテレビが無いので寂しいかと思ったが、却ってそのために静かな滞在ができたような気がする。食事はコンビニで買ってきたおにぎりやパンを食べた。部屋に備えてあったポットで湯を沸かし、カップ麺でしのいだ日もあった。

 気に入ったので、もう一泊追加した。実際にやってみて、夜道を飛ばして自宅へ戻るのが面倒になったからである。家内が風邪を引きずっていたので、車中泊の案は除外された。

 最終日は、展示品を引き払って軽トラに積み、午後7時過ぎに会場を後にした。高速道を使う予定だったが、気が変わった。翌日は予定が無いので、慌てて帰る必要も無い。一般道をゆっくり走ることにした。時間的な制約が無ければ、私は高速道より一般道のほうが好きである。伊那谷の夜景を眺めながらのんびりと進み、展示会の成果や今後について話し合った。最後は、塩尻インターで高速道に乗った。さすがに塩尻から松本へかけての国道の混雑は避けたかったのである。

 全期間を、二食付きの温泉旅館にでも泊まれば、立派な夫婦旅行になったのだが、そういう機会はビジネスを離れて持ちたいものだ。今回のような、費用と時間と体力のバランスを考慮した上でのケチケチ旅行も、目的にかなっているという点で、悪くは無い。




ーーー12/22−−− 漆塗り顛末


 
昨年の終り頃から、漆に手を染めるようになった。自分で漆を塗ることを始めたのだ。ここに至るまで、ちょっと長いストーリーがあった。

 数年前、木工のグループ展で相部屋になった木工家Kさんと、話をした。Kさん自身は漆をやらないが、奥さんが漆塗りの作品を作っている。ちなみにKさんが漆をやらない理由は、かぶれがひどく、仕事にならないからだとか。奥さんは、専門の漆職人ではないけれど、作品の塗りは一見して秀逸なものだった。その作品を一つ購入した。そうしたらKさんが「大竹さんも漆をやれば良いのに」と言った。漆を塗れば、作品の付加価値が上がるというのが、Kさんの主張だった。

 その提言を、私はほとんど上の空で聞き流した。漆塗りは、工程が多く面倒で、それを専門にやる体制でなければ、とうていモノにならないと理解していた。片手間でできる分野では無いと、諦めていたのである。

 昨年末から、象嵌細工をやり始めた。薄い金属線を木に嵌め込み、小木工品を作るのである。ブローチやペンダントなどのアクセサリーも作り出した。試作品が出来た頃、家内がどうせなら漆を塗ったほうが良いと言った。装飾品は、何と言っても、見栄えが肝心だとの理由である。

 偶然にも、チューブ入りの漆を入手した。木工を趣味にしている知り合いが、自分はかぶれがひどくて使えないからと、私にくれたのである。図らずも条件が揃ってきたので、重い腰を上げて漆に挑戦することとなった。

 門外漢が手を出すには、漆の世界はあまりにも間口が広く、奥も深い。やり始めたものの、ちっとも上手く行かなかった。そこで、象嵌と漆の大家であり、伝統工芸作家のK氏に教えを乞うた。メールや電話でお話を伺い、また工房へお邪魔をして説明を聞いた。自己流でやっていたときは、何をやっているのか分からないような状態だったが、K氏のアドバイスに忠実に従って塗りを進めると、綺麗に仕上がるようになった。もっとも十数ヶの工程を経なければならないから、簡単な事ではないが。

 漆は、ある程度温度と湿度が高くないと乾かない。そのため、漆風呂という密閉空間を作る必要がある。当初は一斗缶を改造して、漆風呂にした。自分では良い発明だと思ったのだが、K氏から木で箱を作ったほうが良いと指摘された。木箱を作り、加温、加湿の仕掛けを設けた。それを使ったら、さらに良い結果が出るようになった。

 漆は不思議な塗料である。上手く塗れたときの艶の深さは、他の塗料と比べるべくもない。しかも、塗膜が強い。また、接着効果もあるし、布や紙を張るのにも使える。それなりの腕前の職人が使えば、多種多様な表現が可能である。漆には確実に、人を夢中にさせる魅力がある。

 そんな漆だが、問題点もある。その一つは、かぶれる事である。技術専門校のとき、漆の実習でひどくかぶれ、呼吸器系までやられて入院し、ドクターストップになった生徒がいた。それは極端な例であるが、他の生徒も程度の差こそあれ、かぶれに悩んだ。ところが、である。私は全くかぶれなかった。指導の先生から「あなたは穏かな人柄だが、体質的には結構図太いんだな」と言われたくらいである。

 人の体質は、年月によって変わることもある。25年ぶりの漆に、最初は警戒した。ビニール手袋などを着用し、少しでも肌に付いた時は、すぐにテレピン油で拭き取り、石鹸で洗った。しかしそのうちルーズになって、手に付いても放っておくようになった。つまり、かぶれないのである。手袋も面倒なので止めにした。指先にベタベタと漆が付いても、なんともない。いまだにかぶれない体質のようであるが、これは嬉しい再発見であった。




ーーー12/29−−− 今年を振り返る


 
今年も残すところ三日となった。ざっとこの一年を振り返ってみよう。

 稼業の家具製作は、幸いにも注文が途切れることなく、順調だった。作品も良いものができて、お客様に喜んでいただき、満足が行く内容だった。一方、新しい分野として、象嵌細工に漆を塗る作品を手掛け始めた。これには、はまった。本業に支障をきたさないよう、注意をしなければと思うくらいである。

 唯一の健康活動として重要な位置付けの裏山登りは、低調だった。一年間で33回と、2010年に記録を取り始めて以来最低の結果となった。ちなみに一番多かったのは2012年で、100回だった。

 その一方で、新たにマレットゴルフを始めた。夏の時期は、毎朝のように地元のマレットゴルフ場へ出掛けた。これはなかなか面白い。お金が掛からないのも良い。仲間もできつつある。心身のリフレッシュになるから、今後も続けていきたいと思う。ただ、これによって裏山登りが阻害された感がある。

 登山も低調だった。常念岳、雨飾山、虫倉山の三つしか登らなかった。幕営山行もできなかった。登山も、実行するには心身ともにそれなりのエネルギーを要するので、少し足が遠のくと、さっぱり途絶えてしまう。

 ここ数年、秋に家内と旅行をするようになったが、今年はできなかった。その代わりと言っては何だが、5月の東京での展示会と、12月の飯田市での展示会は、泊りがけで行動を共にした。いわゆる旅行の気楽な楽しさは無いが、こういう機会も悪くは無い。

 夏に、家内の父が亡くなったので、二度千葉へ出掛けた。久しぶりに親戚ご一同と会い、歓談した。家内はこれで両親が居なくなった。この先、実家を訪ねる機会はほとんど無いだろう。

 四月から次女が会社勤めを始めた。これで長女は大阪、長男は東京、次女は神戸と、三人それぞれ故郷を離れて自立した。親としては、養育者の役目を終え、一区切り付いた感がある。

 公民館長の役職は、ほぼ全ての行事が終わり、ようやく任期が終わろうとしている。この二年間、微力ながら地域のために貢献できたことを嬉しく思う。私個人としても、多くの方との出会いがあり、得難い経験もあった。ともあれ、事故やトラブルが無く、雨天中止となったイベントも無く、活動を終えられることを感謝し、協力してくれたスタッフに心からねぎらいの言葉を送りたい。

 教会へ通い始めて二年が過ぎた。さらなる高みへ向けて、そろそろ身の処し方を考えねばと思う昨今である。

 これと言った出来事が無かったような印象の一年だったが、こうしてみるとそれなりにいろいろ有ったのだと気が付いた。ともあれ、病気も怪我も心配事も無く一年が終えられることを感謝したい。

 今年も週刊マルタケ雑記をご愛読頂き、有難うございました。

 良いお年をお迎え下さい。





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